みかんジャム作ってみた。
年末に、どういうわけか一時に集中して色んな方からみかんを頂き、
おすそ分けをした後に、また、頂き、ということがあり、
大量のみかんを目の前にして、しばし思案しておりました。
このままでは大量に腐らせてしまう。どうしようか。
ジャムにしてみようか、と思いつき早速ネットで検索。
色んな人のレジピを参考にしながら、
みかん、レモン汁とハチミツで作ってみたら、
計量もせず、かなり適当に作ったにも関わらず
おいしくできました(自画自賛 ) 笑
そこで出た心の第一声が“みかんはえらい!”
煮込んだのに、みかんの味と風味がちゃんと残ってる。
みかんほど、親しまれている果物はないですよね。
それも温州みかん。安くておいしくて冬場にはいつも家にある。
和歌山やと特に。
皮をむくのに力も刃物もいらず、丸ごとパクっと食べられるし、
ビタミンCもたっぷり。
でも、あまりにも身近すぎて、他の珍しい果物に目が眩んで
自分の中で評価が低かった、と反省させられました。
オレンジのような華やかな香りを発するわけではなく、
自己主張してないのに、自分を失わず、さりげなくて
誰かのために、役に立つ。
みかんはいい仕事してるなぁ、と思いました。
聖書では、「人に見せるために人前で善行をしないように
気をつけなさい。」とイエス様が教えています。
今年も、イエス様に導かれて、“人に評価されたい”という
やらしい誘惑をはねのけながら、成すべきことを一つ一つ
していこう、とみかんジャムを目の前に決心しました(笑)。
もうすぐクリスマスですね。
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
―ヨハネの福音書1章9節
そのまことの光はすべての人を照らします。
まことの光とは、イエス・キリストのことです。
イエス・キリストが世に来ようとしていた。
まさに、イエス・キリスト誕生を預言した言葉です。
クリスマスはイエス・キリストの誕生を喜ぶ日です。
イエス・キリストはすべての人のために
“まことの光”としてこの世界に来てくださいました。
光の届かない人はいないのです。
何か闇を抱えておられないでしょうか。
痛みを抱えておられないでしょうか。
沈み込んでおられないでしょうか。
下ばかり見ていないでしょうか。
このまことの光の中に、完全な愛があります。
完全な愛は、すべての負を打ち負かします。
すべての人は、この光を受け取ることができます。
クリスマス、皆様の上にすでに来ている光に
目を向けてくださることをお祈りします。
イエス・キリストの名前を呼んでみてください。
すべての人の上にMerry Christmas
花のブローチをみんなで作りました。
材料は、新聞紙なんですよ。
ある信徒さんに作り方を教えてもらいました。
新聞紙でブローチが作れるなんて、想像できなかった
のですが、できました。
教えてくれた方は、すでに何千個と作っていて、
友人やら知り合いなどにプレゼントしているらしいです。
「これ、新聞紙で作ったのよ。」と言いながら渡したら
きっと、驚くと思います。ちょっと、話のネタにもなって
良い贈り物ですね。
読んだ後は廃品回収に出される運命の新聞紙が、
工夫する人の手にかかると、ステキな大変身を遂げます。
私たち人間も、私たち人間を創られた神様の手に
握られるなら、自分でも想像していなかった自分の姿を
発見することになります。
「私たちは神の作品であって、良い行いをするために
キリスト・イエスにあって造られたのです。」
― エペソ人への手紙2章10節 聖書
私たちを創られた神様は、一人ひとりを本当に
素晴らしい存在として創っておられます。
神様と出会い、そして、ステキな自分にも
是非、会ってください。
白いトウモロコシ“ホワイトショコラ”
名前に惹かれて買って食べてみたら、
びっくりするくらい甘かったウマシ
気付いたら秋ですね。
8月はあまりにも暑過ぎて庭の手入れをサボっていたら
雑草でエライことになっていました。
暑さも和らぎ、いざ、雑草に立ち向かわんとしたら
今度は長雨で・・・。
先日ようやく、草刈りをすることができました。
雑草は早いめに処理するに限ります。
草の間から、何が出てくるかわかりません。
芋虫・毛虫の類が大嫌いなので、びくびくしながら
庭仕事をするのですが、今回はやられました。
真っ黒いボディに白のラインとオレンジの斑点、しかも角付きx2匹
明るいグリーンのイラガの幼虫多数・・・刺されてミミズ腫れ(泣)
去年までは、こんな不気味な奴らはいなかったのに・・・
雑草は放置すると恐ろしいことになることを実感。
これ、人にも当てはまります。
罪を放置していると、大変なことに。
このことの根本的な解決は、私たちを根本的に治療する
ことができるイエス・キリストにあります。
イエス・キリストは、私たちの罪の解決のために
十字架に架かってくださった神様です。
この方を受け入れ、そのことばを受け入れるなら
私たちは根本的に癒されていきます。
「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、
心に植えつけられたみことばを、すなおに
受け入れなさい。みことばは、あなたがたの
たましいを救うことができます。」
― ヤコブの手紙1章21節 聖書
“あ~、ここええわ・・・、ここ涼しい~”
夏の早朝、教会周りのコンクリートはニャンたちの憩いの場となっています。
猛暑が続いています。平年並みの33℃が涼しく感じるなんて。
日本は熱帯に成っていっているのでしょうか
8月になると、やはり平和について思わざるを得ません。
とくに、今年は・・・。何か、ちょっとしたことで平和の均衡が
崩れそうな感じです。
聖書が貫いているメッセージは二つのことに集約できます。
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。」
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
イエス様はこうも言いました。
「平和をつくる者はさいわいです。その人たちは神の子ども
と呼ばれるから。」
どうやったら、平和を実現できるのでしょうか。
私自身が思うことは、
すべての人が、いかなる動機や理由があろうとも
悪意と敵意を捨てること、です。
不可能に思えます。
しかし、そうしない限り、平和をつくることはできません。
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や
欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」-聖書
この欲望の中に悪意、敵意も含まれます。
イエス・キリストの十字架を受け入れた者は、
悪意と敵意を捨てることができる者にして頂けます。
すべての人を造られた神様は、いわば、自分の子どもたちが、
争うのを見て、どう思われるでしょうか。
ゴーヤの花です。若干生育が遅れ気味
どうもプランターの土が少なかったようで
最近大きなプランターへ植え替えました。
台風の影響で、長雨が続いていますが、子どもたちは
夏休みに入りましたね。
夏休みといえば、宿題がつきものです。
小学生時代、6年間、8月31日は憂鬱な一日でした。
この日、創作活動の苦手な私は、最後に残しておいた(笑)
工作をする日でした。
毎年、超テキトーな作品を作っていました。
例えば、空き瓶を紙粘土で巻いて色を塗って“花瓶”とか
これまた紙粘土で器を作って色を塗って“灰皿”とか
父親は苦笑いをしながら『もったいなすぎて使えん』と
つぶやいていました。
燃える灰皿なんぞ、本当に何も考えずに作っている証拠・・・
聖書には、私たち人間は「神の作品」だとはっきり書かれています。
「作品」と呼ばれるものは、本来、私の宿題のようにテキトーに
作られるものではなく、作者が自分が表現したいことを
素材や道具や作る環境などを細心の注意を払いながら
丁寧に造り上げていくものです。
そして、「作品」は唯一無二、二つと同じものがない一点ものです。
『私は神の作品だ』という事実をしっかりと受け取るなら
今までとは違った世界観が広がりませんか。
「神の作品」なのだから、私たちは価値ある者です。
価値のない人は誰もいません。
この地球上の人々全員が神の作品です。
命を与え、命を取る権限は神にだけあります。
私たちに人の命を奪う権限は与えられていません。
一人一人がユニークな存在です。
誰かと比べるのは全く意味のないことです。
私は神の作品だから、私自身を大切にします。
生きる目的は、私を造った神がご存知です。
私の人生は、私を造った作者である神が握っています。
私自身、私を造った神様に出会った時から
『私は何のために生まれてきたんだろうか』
という漠然とした虚しさは消えました。
意味のない疑問だったからです。
是非、「私は神の作品」だ、ということを思い巡らせてみてください。
真の神様に出会われることをお祈りしています。
「私たちは神の作品であって、良い行いをするために
キリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをも
あらかじめ備えてくださったのです。」
―エペソ人への手紙2章10節 聖書
すごい!出てきた!!ソテツの新芽
引っこ抜かれて一年ほど裏庭に放置されてたのを、
試しにもう一度植えてみたら新芽が出てきた
最近、懐かしい曲を耳にし、何の曲やったっけ?
しばし、思い巡らせて...思い出した!
映画「ディアーハンター」のテーマ曲でした。
「cavatina-カヴァティーナ」
歌詞がついた曲名は「He was beautiful」
ベトナム戦争を題材にした、この映画の、
美しいこのテーマ曲が、ストーリーが語る痛みややるせなさを
際立たせています。
この映画は戦争について色んなことを語っているように思います。
主人公は、ロシア系移民の製鉄所で働く青年
ごく普通の青年、どちらかというと貧しい青年たち。
戦争の最前線に送られるのは、地位もお金もない
普通の青年たちです。
この映画のストーリーで重要な位置を占めるのが
ロシアンルーレットです。
ロシアンルーレットの場面は戦争の狂気の縮図のようでした。
人間を使ってする博打です。
プレーヤーがテーブルを挟んで対面します。
この二人を大勢の男たちが取り囲み
大金が賭けられます。
実弾が1発入ったピストルの銃口を
プレーヤーが自らのこめかみにあて引き金を引きます。
死んだ方が負け。
最前線で命をかけるのは力の弱い人たち。
それに加勢して、囃し立て大金を動かす権力者たち。
命を落とすもの、深く傷付くのも最前線に送られた者たち。
この映画の最後は、ベトナムで死んだ友人の葬式をした
後、戦争に行く前からの親しい友人たちが集まって
食事をするシーンです。
皆、何か言いたげだけれど、何も言葉が出ない。
必死で悲しみをこらえ乗り切ろうとしている姿が
せつなく、その中の一人が
「God bless America」を口ずさみはじめ、皆で歌うのです。
いわば、戦歌です。日本でいうところの
「同期の桜」とかになるでしょうか。
彼らの心境は、もちろん、
アメリカ万歳の気持ちではないことだけは確かです。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。
あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」
―ヤコブの手紙4章1節 聖書
春にバラの苗木を頂きました。
育てたことがないので、適当に肥料と
水をあげてただけなのですが、雑な扱いを
受けている割には、なんとも可憐なピンクの
花を付けました。なかなかたくましい!
皆さんは“こだわり”の強いほうでしょうか?
それとも、あんまり強くないほうでしょうか?
何気なく見ていたテレビ番組でおもしろいことを言っていました。
“こだわり”の強い人、そして、“不安”の強い人は
ストレスを感じやすいんだそうです。
なんとなくわかるような気がします。
こだわりの強い人は自分の意志を無理やりにでも
通そうとします。そして、自分の思うように事が
動いていかない時、当然ストレスを強く感じます。
「違うねん、そうじゃないねん、何やねんこれ」
一方、あまりこだわらない人は、予想外の展開にも
「あ、そう来るか、だったらこうしょうか」
割合、柔軟に物事を受け留めるのでストレスにならないのです。
良い意味のこだわりではなく、悪い意味での強いこだわりは
自分にも他人にもストレスをかけるようです。
私自身、かつて、強いこだわりのゆえにストレスを感じ、
他人に対してもストレスをかけていたと思います。
しかし、イエス様に出会ったことで、こだわらなければ
ならないことは、そんなに多くない、本当にわずかだ
ということに気付かされ、ずいぶん生き方が楽になりました。
イエス様を知ってから、いかに、自分の考え方の枠が小さく、
そして、いかに、自分の視野が狭いかに気付かされました。
だから、自分の考え方枠内でこだわるのが馬鹿らしくなったのです。
イエス・キリストの視点を知ったなら、無駄なこだわりは消えます。
「主は言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを
心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことは
わずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを
選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」
―ルカの福音書10章41~42節 聖書